組合の歴史

沿革

日付 内容
昭和43年 1月 機械企業団地発起人会開催
昭和43年 2月 創立総会開催
昭和43年 5月 第1回通常総会開催
昭和43年~昭和47年 土地取得
昭和45年 12月 組合会館完成
昭和46年 2月 組合員店舗・倉庫102社分完成
昭和47年 3月 共同展示場完成
昭和47年 10月 第1回機械工具競売会開催
昭和48年 4月 第1回機械団地ゴルフ会開催(奈良国際CC)
昭和48年 6月 機械団地青年会発足
昭和48年 10月 第1次補完工事11社分完成
昭和49年 8月 第2時補完工事11社分完成
昭和50年 11月 第3次補完工事(I)3社分完成
昭和51年 3月 第3次補完工事(II)1社分完成
昭和52年 11月 組合創立10周年記念式典挙行
昭和59年 9月 第50回機械工具競売会開催
昭和63年 1月 組合創立20周年記念式典挙行
平成元年 9月 共同展示場補修工事(塗装工事)
平成9年 9月 第100回機械工具競売会開催
平成10年 5月 第50回機械団地ゴルフ会開催(古賀、芥屋GC)
平成10年 9月 組合創立30周年記念式典挙行
平成19年 12月 団地内街灯増設、案内看板、駐車場整備
平成20年 3月 組合創立40周年記念式典挙行
平成20年 8月 共同展示場改修工事(エレベーター設置等)
平成22年 3月 第150回機械工具競売会開催
平成23年 7月 機械情報センター事業継承
平成27年 11月 第二共同展示場完成
平成30年 9月 組合創立50周年記念式典挙行
令和2年 8月 組合会館建替え完成

誕生までの歴史

由緒ある土地柄の東大阪市

生駒山麓から河内平野に広がる東大阪市は、大阪府のほぼ中央部大阪市の東側に位置し、集落としての東大阪市の歴史は非常に古く、数千年前とも数万年前ともいえる先土器時代から縄文、弥生、古墳時代にいたるまでの遺跡、遺物が多種にわたって発掘されています。

当団地周辺の地形は、江戸時代、河内平野を南北に流れ、毎年のように氾濫していた大和川の流れを柏原のところから堺の方へ付替えが行われ、その結果、旧川床や池床が干拓され広大な敷地ができ、その地床を新田として開発を行った地域で、もともと湿地帯であったため米作には向かず、木綿(いわゆる「河内木綿」)の作付けが中心でレンコンの栽培も行われていました。

大阪の中心、船場に近いという地の利があり、木綿を加工するための小規模の工場が発展していました。明治以降は、交通機関の発達とともに、セルロイド、マッチ、金網などの軽工業が進出し、地場産業として定着しました。
戦時体制化では、軍需産業に転換したところも多かったようですが、残された技術が現在の生産機械のための機械作りやその部品作りの原動力になっています。

旧鴻池新田会所

新田開発を行ったのは大阪の豪商鴻池家三代目の善右衛門宗利で、当団地最寄り駅のJP学研都市線「鴻池新田」駅の近くには鴻池新田の管理事務所としての「旧鴻池新田会所」がそのまま現存し、日本の重要文化財として指定され、郷土資料館として一般に公開されています。

機械団地誕生への胎動

戦後、谷町、九条の有力機械業者が今里地区に集まって、一大今里機械街ができたものの、過密化、狭隘化し、交通も絶えず渋滞、駐車困難となり、重量物の機械搬入、搬出は長時間を要し、交通機能がマヒ状態化で、取引が自然に減少するという危惧が生じていました。これは今里地区だけでなく谷町、立売堀、西淀川地区にも共通のもので、機械業者や工具業者は試行錯誤の形でその突破口を求めていました。

一方で、団地作りの原点が“大阪機械競売会(現在の機械工具入札会)”で、いわゆる工作機械や鍛圧機械の“セリ市”で、歴史は古く、戦前「東雲町機械置き場で第1番のセリをやり、九条の肉屋イロハで第2番のセリを行った」一例があり、大正末期には本田(大阪市西区)にあった中立競売会がありました。戦争で中断し、昭和21年に再び復活、やがて発展的に解消しましたが、昭和40年9月大阪機械業連合会の事業部として新発足し、翌年の昭和41年6月11日に第1回競売会事業として西淀川区の江崎鉄工所の整理機械を全部買い受けて、盛大に開催し、第2回は都島区の高倉町で開催しこれも盛大に終えています。
このように競売会が開かれたあとで必ず出た言葉が“年に何回か定期的に開催して行くために、かっこうな場所はないものか”とういことで、大阪機械業連合会の今里、谷町、西淀の各地区役員が総がかりで場所探しを開始した時期でもありました。

その突破口のひとつに東大阪市の誕生で、昭和42年2月1日に東大阪市発足宣言があり、その一つに“流通副都心に卸売機能を集中し、市内小売商の仕入を容易ならしめるほか、共同経営と組合組織を促進し、経営の近代化を助長する”との都市建設計画が明らかにされました。

そして、東大阪市がスタートした2ヵ月後の昭和42年4月4日「東大阪企業団地に関する説明会」が開催され、大阪機械業連合会の今里地区(現大阪今里機械業会)、谷町地区(現大阪谷町機械業会)、西北地区(現大阪西北機械業会)、西淀地区(西大阪機械業会)の会員有志が参加し、団地計画について詳しく聞き、約2ヵ月後の5月26日「百聞は一見に如かず」で大阪機械業連合会の有志約100名が自家用車30数台を連ね、「東大阪団地の現況検分」として紙文具と機械団地の予定2ヶ所を見学し、いよいよ団地作りへ動き出すこととなったのです。

団地加入を広く呼びかける

「東大阪団地の現況検分」に続いて現地にある開発事務所を訪問した際、「他の申し込み団体との関係もあるので、希望通りに譲渡できるか確約できない。いずれにしても早く決定のうえ交渉を進めて欲しい」と現場出張所所長からの説明があり、希望者の確認と希望坪数を調査することになりました。

昭和42年8月5日の大阪機械業連合会「大機連ニュース第7号」による希望者と希望坪数は、今里46社8,600坪、谷町33社3,350坪、西淀・西北2社150坪で合計81社12,100坪と現在の面積21,400坪を大きく下回っており、前段階での予約はかなり難産であったことが伺えます。それと言うのも「流通副都心」といっても、当時は田園また田園で広いだけが取柄の土地で、地盤問題や交通問題はどうなるのかと心配した向きも多く、最終決定には思案があったものと思われます。

大阪市営地下鉄 中央線

ちなみに「大阪市営地下鉄4号線(中央線)の延長と近鉄東大阪線の新設」は昭和52年2月8日に大阪府都市計画地方審議会で了承され、昭和60年4月に今の「深江橋」駅から「長田」駅が開通しています。

こうした時に「機械屋だけの集まりでは視野が狭すぎるから、あらゆる業種の人に呼びかけようではないか」との声が次第に高まって身近な工具関係業者への呼びかけが積極的に行われました。その結果、西北地区(新町、立売堀地区)で1社の申込が一挙に14社となり申込坪数も4,000坪となりました。

しかし、ここで悩みの種になったのが大口の申込でした。1,000坪も2,000坪も欲しいところと100坪ではあまりにも格差がつきすぎるため、大口の申込を認めるか認めないかで議論が沸きに沸いたのです。昼頃に始まった会議も、既に夕暮れとなり、そして午後11時過ぎの深夜へとかかりました。(役員の表情は真剣で、これから協同組合の一員として協調しての共同事業遂行にあたってネックになってしまっては・・・の心配があったからでしょう)
もっとも大阪府の制約もありましたので大口も限度があり、とにかく300坪を限度としてなら入ってもらおうと言うことで落ち着きました。

その日、会議を終えて帰宅途中の役員の頭上には、既に明けの“明星”が輝いていました。中川勝氏は「高度成長期でもあり、前向きでスタートし、気を強くしていけた」と回想しています。

高度成長期の機械業界

当時の機械業界は、日本工作機械工業会がまとめた需給見通しによると、「昭和42年度の生産は960億円で昭和41年度の820億円に比べ18%アップ、輸出は180億円で前年度160億円に比べ12%増、内需は900億円で前年度比22%増」といったように、生産規模は昭和37年~38年の規模に次ぐ高水準になっています。
鍛圧機械も「自動車など関連産業の設備意欲の旺盛を反映し、各メーカーとも受注が急増しており、納期の10ヶ月から1年は平均で、なかには2年後の昭和44年ものの長納期も出ていた」状態でした。

機械団地誕生への胎動

大阪機械卸業団地協同組合構想が煮詰まって行く中で昭和42年10月には、大阪機械業連合会のなかに、企業団地設立準備委員会が発足しました。

昭和43年の国内外情勢は、ケネディラウンド(GATT)の多角的貿易交渉の中での関税一括引下げ交渉の妥結による自由貿易体制への前進や発展途上国に対する特恵関税の供与の動きなど国際的な経済環境はめまぐるしいものがあり、国内的には労働力需給逼迫への対応と技術開発の培養や輸出振興対策に追われていた国内外の激しい動きのなかの昭和43年1月10日第1回発起人総会が、今里の大阪銀行2階で開催され中川機械(株)中川勝氏が発起人代表として就任しています。第2回の発起人会は1月26日に開催され、1.定款原案作成の件、2.設立趣意書の件、3.事業計画の件、4.収支予算書の件、5.資金計画の件、6.高度化資金申請の件、7.団地形成に関するPRの件、8.設立総会に関する件が審議されました。第3回の発起人会は2月9日に開催され、1.設立同意者報告の件、2.規約規程に件、3.賦課金の件、4.借入金の最高限度額の件、5.取引銀行決定の件、6.役員(理事、監事)選挙の件、7.創立費の件、8.総会次第の件などについて審議し、決定しました。

そして、創立総会が昭和43年2月14日午前10時から東大阪市永和の東大阪市民会館の3階大集会室で盛大に開かれました。総会では、中川勝大阪機械業連合会会長が「私が大機連会長になったときから、機械団地について考えていた。皆さんもご存知のように現在、谷町、今里地区では地下鉄工事が進められているが、市内の交通事情は日を追って悪化している。幸い関連業界83社の支援により今日、大阪機械卸業団地協同組合が設立するにいたった。しかし、これからが大変だと思う。なんとか成功させて、一大機械流通センターを皆様とともに作り上げたいと祈念している」旨の挨拶があり、各界からの祝辞、祝電披露が行われ各議案を承認可決後、初代理事長に中川機械(株)中川勝氏が就任しました。

いよいよ夢の団地作りが開始したわけで、日本で文字通りにトップになる団地実現がいかに生易しいものではないことを中川理事長をはじめ各役員は感じつつ胸中深く決するものがありました。

そして、昭和43年3月30日に大阪府知事より大阪機械卸業団地協同組合として正式の設立許可を受けることとなったのです。

設立認可時の組合概要

組合員数 103社
昭和43年 1月 工作機械 41社
鍛圧機械 16社
その他  46社
計    103社
組合員の概要 総資本額 2,497,770千円 1企業平均 24,250千円
総従業員数 3,364名 1企業平均 33名
年間販売総額 70,729百万円 1企業平均 686百万円

歴代理事長

氏名 会社名 在任期間
中川 勝 中川機械株式会社 昭和43年3月~昭和46年5月
堀井 康守 生野機械株式会社 昭和46年5月~昭和51年2月
福田 克美 株式会社福田鉄工所 昭和51年2月~昭和55年2月
君浪 鉄雄 梅田機工株式会社 昭和55年2月~平成2年2月
仙波 利吉 仙波機械株式会社 平成2年2月~平成4年2月
中山 注次 トラスコ中山株式会社 平成4年2月~平成14年2月
藤澤英三郎 日光機械株式会社 平成14年2月~平成18年2月
田中 康造 喜一工具株式会社 平成18年2月~平成26年2月
川上 佳夫 三和精機株式会社 平成26年2月~令和2年5月
赤澤 正道 赤澤機械株式会社 令和2年5月~令和6年5月
西川 正一 西川産業株式会社 令和6年5月~現在